官能小説(短編)/逃げ場のない満員電車。痴漢なのに思わず……
今朝は気分が良かった。
昨日のうちに面倒な資料作成を片付けたおかげで気持ちが軽い。
新人研修だけに集中できる。
万由子(まゆこ)は着替えを済ませると勇み足で家を飛び出した。
今日は白のブラウス・シャツに淡いピンクのひざ丈フレアスカートにした。
普段はスマホのアラームを合図に玄関に向かうのだが、目覚めがよかったのもあってひと足早く家を出たため、食卓テーブルに置きっぱなしだったスマホを危うく忘れかけた。
万由子は化粧品メーカーの販売促進部に所属していて、新商品のPR業務のチームリーダーを任されている。
コマーシャルのキャッチコピーやパッケージのデザインなどは広告代理店が手がけたが、その打ち合わせで用いられる資料を作成するのはチームの役割である。
資料は多いものでA4サイズ数十ページにも及び、成分表などを含めた丸投げ資料による誤字脱字チェックまで任されていたため、心が折れることはたびたびあった。
地下鉄の車両はいつものごとく満員だった。
入社して十五年が経過して満員電車のその劣悪な環境にはいい加減慣れっこになってはいたものの、今朝のように気分が良い日などはふと我に返ることがあってその異常な光景に思わず苦笑する。
馬鹿みたいにぎゅうぎゅう詰めだった。
上京して間もない頃は電車が駅に止まるたびにごく少数の乗客が降り、かわりにびっくりするほどの人数が乗り込んでくるその様相に唖然としたものである。
当時、大学生だった万由子はおよそ人の乗り物ではないと感じた。
電車に揺られ背広の男性に押されながら、かろうじて見える中づり広告を眺めて過ごした。
電車が三つ目の駅を発車してすぐにその違和感に気づいた。
背中にぴったりと張りついてくる人の気配である。
はじめは気のせいかとも思ったが、寄りかかっているのではないかと思えるほどの不快な圧力を感じて、その何者かが背中に体を密着させていることに気づいた。
両肩のすぐ下辺りから背中、お尻、太ももの裏側にわたってぐっと押しつけられている感触がある。
体をこちらに向けていることは時おり触れるひざのふくらみで分かった。
万由子は過去に何度か痴漢被害に遭ったことはあったが、まるで自身の存在をアピールするかのように、真後ろにぴったりと張りついて立ち続ける痴漢は初めてである。
痴漢であると断定するのに時間はかからなかった。
お尻に気配を感じた。
揺れによる接触とは別ものの不自然な手つきである。
睨みつけてやろうと顔を右に向けると、背広の肩の部分が見えて相手が男であることが分かった。
思わず鳥肌が立った。